奥津軽について

奥津軽の歴史

中学高校で習う歴史の教科書・参考書においては、江戸時代に津軽藩が創設された、という簡単な記載がある以外は、戦国時代以前の歴史においては津軽はまったくといっていいほど登場しません。北東北一円が巨大な「陸奥国」となっていただけです。

つがる市亀ヶ岡地区では、縄文時代としてはきわめて高い芸術性を持つ、世界的にも有名な遮光土器が明治時代から発見されていました。また現在数百人が居住する五所川原市市浦地区十三集落は、かつては十万人もの人口を抱える大都市であったという伝説が残りつつも、明確な証拠が無かったため迷信とも事実とも判断しかねる状況でした。

縄文時代〜戦国時代の奥津軽の歴史は、実際のところ数十年前までは文献の少なさもあって明確ではありませんでした。しかしながら最近は、考古学の発展により徐々に奥津軽の歴史が明らかになりつつあります。

縄文期 世界的に有名な遮光土器

津軽縄文時代地図

つがる市にある亀ヶ岡遺跡の「遮光土器」は、その芸術性の高さと神秘性から、その写真を目にしたことがない日本人はいないほど有名です。江戸後期から芸術的な土器が産出することが知られており、村人たちによって掘り起こされ、江戸など中央の文化人に珍重されました。海外まで渡ったものも多くあります。ここまで高度に文明が発達したのには、当時、以下のような地理的好条件が揃っていたためと考えられています。

縄文海進期(6000年前〜3000年前)、地球は温暖で、海面は今より4メートル程度高いところにありました。十三湖は、現在の五所川原市街地付近まで広がっていました。当時の、十三湖と山脈にはさまれた集落は、温暖な気候もあって、背後の山からは鹿などの動物、豊富な堅果類、眼前の十三湖からも豊富な魚介類を得ていました。さらにはクジラやアザラシ、オットセイなど外洋性の海獣の骨まで出土しています。

このような地理条件のため、天候不順などによりいずれかの食料が不調であっても、ほかの食料で事足りることができました。豊かで安定した生活が、亀ヶ岡遺跡のような高度に発達した文化を生んだと考えられています。

平安京と無縁だった、平安時代の奥津軽

藤原氏が、まだ統治地域外であり「蝦夷」(えみし)が住む土地であった東北地方に征夷大将軍として坂上田村麻呂を送り込みました。しかし、奥津軽までは征服せず、律令制などは到達しませんでした。

奥津軽では、稲作や漁撈に便利な低地ではなく、標高数十メートルの一段高い丘陵部に、深い堀や柵で囲まれ容易には進入できない「防御性集落」の跡がたくさん見つかっています。集落がこのような形態に移行したのは、蝦夷同士の争いによるものとも推測されていますが、明確ではありません。

この「防御性集落」は、12世紀には終焉を迎えますが、奥州藤原氏の支配が奥津軽まで及んだためと推測されています。しかし異論もあります。

中世 幻の巨大都市、十三湊

中世の建造物は、奥津軽には皆無で、文献や仏像もごくわずかであり、まだまだ謎に包まれています。津軽半島の平野部は、一面、身の丈ほどもある葦が生い茂る湿原でした。

今は人口数百人の集落である、五所川原市市浦地区十三集落。地元奥津軽では昔から「十三は、大昔はものすごく栄えて外国と貿易するほどだったが、津波で一日で滅んで、ああなった(今の小さな集落になった)」と言い伝えられてきました。十三集落の広い範囲にわたって、畑や浜などからは、昔から陶磁器の破片が散在しているのに、そこまで巨大都市だった事を裏付ける遺構や文献がまったく無いこと、津波により一夜にして壊滅したといわれていた劇的な滅び方などから、地元の人にとって十三湊古代巨大都市の逸話は、まさに「伝説」でした。

しかし、十三湖のほとりの十三集落は、平成に入ってからの発掘調査の結果人口10万人の巨大都市であったことが判明しました。整然とした都市計画により、都市住民、港湾施設、宗教施設が集中する、土塁や堀など防御施設を備えた過密都市でした。韓国や中国との貿易が活発で、海外の高級陶磁器類が大量に出土しました。明治政府設立時、石川県の金沢市は人口10万人でしたが、東京、大阪、京都、につぐ全国4番目の人口だった、ということから、鎌倉時代において人口10万人の人口を抱えていたことの凄みがわかります。

津波の被害を受けた形跡は結局見つかりませんでした。 

十三の巨大都市が滅びた原因は、十三湊を支配していた安藤氏が南部氏との戦いに敗れ十三湊を放棄し、そのため急激に廃れたと推測されています。

近世 湿原開拓の歴史

奥津軽の平野部の、殆どの水田および集落は、17世紀以降の藩の直接指揮による湿地帯の開拓により形成されたものです。

江戸時代に入ると、津軽が統一され、弘前藩が設立されました。この当時、津軽半島の平野部は湿地帯で、おおむね五所川原市街地以北の平野部には人は殆ど住んでいませんでした。

17世紀後半から、弘前藩が直接指揮することによる北津軽の新田開発が行われました。津軽半島平野部に広がる美田は殆どが、江戸時代中頃より開発されたものであり、現在ここに住む人たちは皆、開拓者の子孫です。これにより弘前藩の石高は、幕府公認の領知高 4万7千石から、1687年には26万1831石へと驚異的に増加しました。弘前藩による湿地帯における水田開発は江戸時代末期まで続けられました。

また、鯵ヶ沢と十三集落は海運の拠点として、深浦町は風待ち港として、港町が形成されました。

大地主が誕生した明治維新〜戦前

奥津軽の、津軽半島平野部は、きわめて規模が大きい地主が数多く誕生したことが特徴です。

明治維新後の地租改正により土地の売買が自由化されると、農地を担保にした金融が行われ、農地の集積が行われました。借金を返済できず小作人に没落する農家が多数出る一方で、農地を買収し大地主になるものも現れました。

五所川原では、佐々木喜太郎という大地主が、明治前半に青森県一の納税者となりました。同じく五所川原市の大地主で、青森県第3位の納税者だった佐々木嘉太郎は、明治29年「布嘉御殿」(布嘉は佐々木嘉太郎の屋号)という巨大な邸宅を10年の歳月をかけて建築しました。五所川原市本町の約1万2千平方メートルの敷地に、建坪約900坪で、金箔を張り詰めた「金の間」「銀の間」も備えるなど豪壮な作りでした。五所川原市金木町の大地主、津島家は、後に「斜陽館」と呼ばれる大邸宅を建築しました。斜陽館は、作家太宰治の生家として多くの文学ファンが訪れています。

明治政府による殖産興業政策の一環として、洋種果樹生産が奨励され、青森県ではりんご栽培が発展しました。また、藩政時代より植林が行われていた津軽半島のヒバは、明治末期以降、森林鉄道が津軽中に張り巡らされることにより、活発に切り出され、林業および製材により旧金木町・旧市浦村(いずれも現在五所川原市)・旧中里町(現在中泊町)が発展しました。

明治31年までは村だった五所川原市は、大正7年の鉄道開通をきっかけに、奥津軽の農産物の主産地となり、急激に発展しました。このころまで、五所川原町では高さ30メートルにもおよぶねぷたが作られ100〜200人に担がれて運行されていました。巨大なねぷたの出資者は、上記の大地主、および、莫大な小作料を資本に金融や商業を展開した豪商たちでした。しかし大正時代の電線普及によりねぷたは小型化しました。

戦時中〜戦後〜現代

五所川原町(現在 五所川原市)では、昭和19年11月29日、大火が発生、役場・駅・郵便局などを含む、当時の市街地の大半に相当する700戸あまりが消失しました。このとき、東北一の豪邸といわれた「布嘉御殿」も消失しました。戦争と敗戦の混乱の中、町民は町の再建に努力しました。ところが昭和21年11月23日。再び大火が起こり、昭和19年の大火で焼けて再建した700戸あまりがまたしても焼失しました。

市民の心理的は疲弊は大変なものがありましたが、復興を遂げ、昭和29年10月には市制を施行しました。

さらに五所川原市は、五所川原市市制施行3周年と日本の国連加盟を記念した「平和産業大博覧会」を、広大な敷地で開催し、市内は大勢の人で活気にあふれるようになりました。

寺町・本町・大町の各商店街には、飲食店や商店が軒を連ね、奥津軽一の商業都市として大変な賑わいをみせました。昭和40年代後半には、デパートが3軒林立し、アーケード通りも5本になりました。五所川原市の、住民の人口に対する商圏人口の比は、一時期、日本でも10番以内に入るほどでした。

積雪による不便さと車社会の進展から、平成4年以降は、田園地帯に郊外型大規模ショッピングセンターが立地するようになり、それらを取り巻くように次々と田園地帯が郊外型店舗に変化しました。それに伴い、ここ数年、五所川原市内の商店街は空洞化しました。

郡部では、高度成長期以降、殆どの農家が冬季間関東方面へ出稼ぎに行くようになりました。この頃より、現在まで、奥津軽においては新規学卒者の地元求人はごく少なく、中卒・高卒の約9割は県外や青森市で働くため奥津軽を出て行く状況が続くようになりました。

大学、大企業の支店、国の出先機関、大企業の工場、など、青森県以外の人が勤務する職場が多数ある南津軽や青森市は、津軽らしさが徐々に薄れつつあります。しかし奥津軽では、人口の流入が殆ど無い事によって、独特の方言・風習・町並み・人情が、今なお変わらず残っています。